From.吉田愛
「自分はあの人より出来てない。」
「あの人より私は優れている。」
そういう想いが何度も巡って気持ちが疲れる…。ということはないでしょうか?
「人の価値は平等」と頭では思っているのに、比較してしまう自分に嫌気が差す。
でも比較することをやめられない、、、。
でも気づいたことがあります。
優劣とは、じつは種類なのではないかということ。
どちらかが上でどちらかが下ということはないんじゃないか…。
なぜでしょうか?
それは、優れているものがどのような場合においても価値があるとは言えないからです。
劣っているものがどのような場合にも価値がないとは言えないからです。
たとえば、最先端の高度な技術に感動することがあるのと同時に、巷の未熟な子供の行動に感動することもある。
職場で完璧な人が素早く仕事を終わらせることに感心することもあれば、知らないことがあり、教えてもらうという手順によって上司との関係性が生まれる時もある。
優劣は種類でしかなく、時と場合、人の価値観、見え方によって変わる。
2016年という時代の、この「日本」という国の中で、あなたや周りの人が感じているものでしかないのです。
だから、「できない自分は駄目。」「あの人より自分は価値がない。」「生きている価値はない。」と思う必要は全くありません。
では、優劣のこだわりを越えるとは、ただ「全員等しく尊い」と思うことなのでしょうか?
いえ、そうではありません。
優劣を越えるとは、劣性と優性のそれぞれの効果をよく知っていて、それを認めている。
劣性にも優性にも価値があり、それぞれが生む効果、結果を分かった上で、必要に応じて優性を求めることが出来る。
言い換えれば、劣が“世の中から無くすべきもの”でないと悟った上で、自分にとって最高の効果を目指す。
たとえば、自分の人生を悔いが残らないものにする、最高の人生にするために、そのために必要なことを考える。
ダンサーとして日本人で一番名の知られた人物になる。
これまで誰も考えつかなかった商品を生み出す。
過去のアスリートの記録を塗りかえる、、、。
これまでに生まれた、優れているといわれる物と「勝負」する。
それができる時、初めて優劣を越えることができます。
どちらの人生が上で、どちらの人生が下か、と比較することがない。
とらわれていないからこそ、今の時代での優性、劣性という種類を含めて、それぞれの存在をありのままに見られるようになるのです。
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